オリンピックの直後に開催される障がい者によるパラリンピックですが、その記録やありようについて様々な意見や考え方があります。

その中で、ネット上で「ちょっと引っかかる考え方」を見かけたので、紹介&私個人の意見を述べさせていただきたいと思います。

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パラリンピックはオリンピックほど盛り上がらない?

パラリンピックはオリンピックほど注目されないと言います。

確かにそういう傾向はあるような気がします。

なぜなら、オリンピックでメダルを獲得した選手は、帰国後にテレビを中心に様々なメディアに露出する一方、パラリンピック選手はそうではないからです。

たとえば音楽特番のような、オリンピック競技と全く関係のない番組にも金メダリストが勢揃いしたりします。しかし、そういう場にパラリンピックのメダリストが勢揃いすることはありません。

個人的にはオリンピックのメダリストと同列に、そういう場にも顔を出してほしいのですが、現実はそうなっていません。

やはり世の多くの人にとって、パラリンピックはオリンピックほどには注目されていないということなのだろうと思います。

なお、ここで私の立場を明確にしておきますが、私はパラリンピックがオリンピックほど感動できないとか、関心が持てないということはありません。

私の「感動」についての考えは後述したいと思います。

とりあえずは以下に、あるところで見かけた意見と、それに対する私の疑問を述べます。

パラリンピックは人類最高のパフォーマンスではない?

パラリンピックがオリンピックほど興味や関心を持てないと明言する人の中で、このような意見を言う人がいます。

オリンピックは人類最高のパフォーマンスを見せてくれる。生身の人間の圧倒的なパフォーマンス、極限の可能性を見せつけてくれ、そこに感動を受ける。

一方のパラリンピックは、障害を抱えている人たちの世界で最高というに過ぎない。障がい者である時点で人類最高ではないので、特に感動を受けることはない。

そもそもオリンピックのパフォーマンスは本当に人類最高なのでしょうか?

パラリンピックが「障がい者の中での最高のパフォーマンスに過ぎない」のであれば、オリンピックも、しょせんは「地球上にいる全人類70億人のうちのごく一部の、幸運にも機会を与えられた人たちの中での最高のパフォーマンスに過ぎない」のではないでしょうか?

世界中に埋もれた素材・才能というものは、そこかしこに転がっているはずです。そして私たちの世界は、そういう可能性を常に見落とし続けているのです。

オリンピックのパフォーマンスは、運良く掬い取ることのできた「見逃されなかった可能性」の一部に過ぎません。

もちろん、例えば100メートル走でボルト選手を超える可能性のある人間が、彼以外に現在の地球上に存在する可能性は高くはないでしょう。

しかし、そのボルト選手にせよ、もしジャマイカではなく、たとえば南スーダンのような地域に生まれていたら、今のようなアスリートになれた可能性は低いでしょう。

オリンピックではないですが、野球のイチロー選手や大谷翔平選手にしても、日本ではなく、たとえばカンボジアに生まれていたら、今のような野球選手になれていた可能性は低かったはずです。

パラリンピックの記録は道具のおかげ?

もしかすると、この人が言いたかったのは、「それでも現実問題として、ボルト選手が人類最速の男なのは公式記録から明らかだ、だからオリンピックはやはり人類最高のパフォーマンスと言って良いのだ。一方で、パラリンピックはそうではない」ということなのかもしれません。

可能性ではなく、現実に残されている記録に着目するということですね。

しかし、同じ人がさらにこんなことを言っています。

パラリンピックは義足などの道具の技術がすごいのか、生身の人間がすごいのか、よく分からない。さらに言うと、障がいによって道具の使い方も違ってくるので平等な条件での競技になっていない。

このような疑問を持ちながら、なぜ「オリンピックの記録は生まれ育った国や地域の環境がすごいのか、生身の人間が凄いのか、よく分からない」という疑問が出てこないのでしょうか。

パラリンピックで、義足などの道具の力を借りて記録を出すことを疑問視しておきながら、オリンピックで、ある国や地域が持つ競技の伝統や歴史、インフラや資金などの力をもらって記録を出すことについては疑問を持たないのは、フェアな見方とは言えないと思います。

それはオリンピックも同じでしょ!

さらに言うと、道具の技術が凄いのか、生身の人間がすごいのかよく分からないのは、オリンピックでも同じだと思います。

スキー板だとか、シューズだとか、水着だとか、数十年前のものと現在のものを比べれば、純粋に道具の差によるパフォーマンスの違いはとても大きいはずです。

続けて、ご丁寧にこんな注記もしています。

オリンピックの場合は、道具はすべての選手に対してほぼ平等に使えるからパラリンピックとは違う。

これは無邪気すぎる意見です。スキー板の長さについてのルール1つ取っても、人種的特性(体格など)等によらない、真に平等なルールというものがいかに難しいかが分かります。

いずれにしても、これらの意見はすべて、論理的に不十分だと思います。

結局偏見かよ!

上の2つの意見は、同一人物によるものです。その人は、3つ目の意見として、こんなことを言っています。

本当のことを言えば3つ目の理由もありますが、今の時代では多分に差別的と取られるのでここでは言いません。

結局、これがその人にとっての1番の理由なのだと思います。

要するに、最初に偏見や差別的な意識があって、そこから議論を始めているから、オリンピックとパラリンピックに上記の意見のような差をつけてしまっていただけなのですね。

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私の考える感動の源

というわけで、この人の意見は、要するに単なる偏見や差別意識に根ざしたものであることが分かります。

この人、いろいろ理屈を述べているので見えにくくなっていますが、要するに「パラリンピックがオリンピックほど盛り上がれないのは、私に偏見や差別意識があるからです」と言いたかっただけなのですね。

それはさておき、ここで私の「感動」の源についての考えを述べさせていただきたいと思います。

感動というものは、何も「客観的に最高のパフォーマンス」をすることから呼び起こされるものとは限らないと思います。

結果として「最高」となることはあるでしょうが、「最高」であることは感動の必要条件ではないと思います。

私は、感動というのは、その人が、与えられた資質や境遇、状況の中で、どれだけ歯を食いしばって修練を重ね、苦悩し、困難を乗り越え、その結果その人に可能な限りの限界の高みにまで手を伸ばすことができたか、その過程と結果がセットになってもたらされるものだと考えています。

これは別に私だけの特殊な意見でも何でもなくて、例えば極貧の家庭に生まれたり、人一倍勉強が苦手だった子が努力して、長じて優秀なエンジニアや科学者、実業家などに成長する物語など、ベタだけど感動的なストーリーとして語られたりしますよね。

こういう話が繰り返されるのも、私たちのうちの少なからぬ数が、こういう話が好きだからです。

だから、スタートはどこからでもいいのだと思います。健常者だろうが、障がい者だろうが、優れた才能を持っていようが、平凡だろうが。

そのスタートライン、配られたカードで、どこまで勝負できるかこそが本質なのだと私は思います。

その考えに立つことをすれば、上の意見を表明した人もパラリンピックにも大いに感動することができるはずです。

もちろん、彼がそのような感動はパラリンピックに求めていない、自分はオリンピックの圧倒的なパフォーマンスにこそ感動を覚える、パラリンピックにその要素はないので感動はできない、と言うのなら、それは1つの尊重すべき感性や考え方です。その感性や考え方自体を否定するつもりはありません。

ただ、彼の感動できない理由付けが今ひとつ論理的でなく、偏見じみていて違和感を感じたので、この違和感の理由を自分なりに整理してみたかった、というのが、この記事を書いた動機でした。